江田政亮(えだ まさすけ)貴布禰神社第17代宮司/保護司

江田政亮(えだ・まさすけ)

昭和44年3月22日生まれ、関西学院中学部、高等部、関西学院大学社会学部で学ぶ。高校・大学時代はアメリカンフットボール部に所属。卒業後は産経新聞社に入社し、サンケイスポーツに配属され2年間、整理部・運動部・大阪国際女子マラソン事務局に勤務する。父の死去後、平成5年11月から貴布禰神社第17代宮司として奉職する。産経新聞社退社後も、大阪新聞・夕刊フジなどの記事を執筆。現在は社会人アメリカンフットボール「Xリーグ」のオフィシャルホームページ記者。地域誌『南部再生』のコラム執筆。FMあまがさきにて「8時だヨ!神さま仏さま」(毎週水曜日20、FM82.0)のDJとしても活動した。

今から30年ほど前、ある地域誌に「尼崎は住みにくい町だ」というニュアンスの話を寄稿した。その根拠としたのは、①犯罪が多い ②公立小学校・中学校の学力レベルが低い ③パチンコ店など娯楽施設が多い これらの理由で、当時の私の年齢であった30歳前後のファミリー層が、尼崎市内に住むことを敬遠していることだった。私自身も半分冗談だったが、「夢は芦屋に住むことです」と話すほど、子育て世代から尼崎は敬遠されていた。

 地域誌が発行された直後に、お知り合いの方から「宮司さんが、尼崎は住みにくい町だと言ってはいけません」とお叱りを受けた。そして「これほど住みやすい町は他にありませんよ」と続けられた。

 尼崎という町は、昔々から発展した町だった。市内には、64の神社があるが、現在同じくらいの規模の市である西宮市内の神社は、40社に満たない。人が集まって村が作られ、その村人の集う場として神社という空間が生まれるだけに、両市の神社数を比べれば、西宮市より尼崎市の方が、多くの人が住む発展した町だったことが分かる。

 また、戦前から戦後、尼崎市は多くの工場が進出し、高度経済成長時代には、人手を確保するため九州・四国などから多くの働き手が移り住んできた。大阪と神戸の間の小さなエリアが、50万人都市になりかけるほどの賑わいを見せた。多くの人が営みを始めると、当然いろんなことが起こる。

 私が幼かったころ、近くの銭湯に連れていかれると、立派な刺青を体中に彫ったおじさんが数人浴槽に入っているのはごく普通の光景だった。神社の隣の公園には今でいうホームレス(当時は浮浪者・ルンペンと言った)が何人もいて、「お宮さんのボン!」と声を掛けられ、怖くて家に駆けこむことが何度もあった。境内で若者がたむろしていると、その傍らにはシンナーの入ったビニール袋が落ちていた。

 神社の最寄り駅である阪神出屋敷駅は、日雇いの労働者が仕事を求めて朝に集まってくる町だった。尼崎センタープールの客も駅前の立ち飲み屋で昼間から酒を飲んでいた。ある時、ズボンのポケットに入れていた五千円札を不覚にも落としてしまい、気づいて振り向いたら、すでに知らないおじさんのズボンのポケットにしまわれていた。「それ僕のです」とは、よう言えなかった。

 でも、地域力は半端なかった。

 そこら中の長屋の前には、おばちゃんたちが集い井戸端会議。その前を通ると、「ぼん、お帰り。今日は早かったな」。近くの市場や商店街も活気があり、店頭に立つおっちゃんが、しっかりと見守ってくれていた。

神社の祭りも町を挙げての全面協力。近所のおばあちゃんは「盆も正月も帰ってこうへんけど、貴布禰さんの祭りだけは子どもや孫が来てくれるから、少々のことは任せとき」と道路のゴミ掃除などを手伝ってくださっていた。

現在の組織化された地域力ではなく、自然発生的に生まれる地域力がそこにあったと思う。

 まだまだ、尼崎は捨てたもんじゃない、と言われる。あの混沌とした町の時代から40年以上が経過し、刺青を入れた人を公衆浴場で見かけることもほぼなくなり、ホームレスもいなくなり、落とした金品も手元に戻ってくる住みよい町にはなった。と同時にあの頃の魅力、人情もまだ少しは残っている。

 今なら、尼崎は住みよい町だ、と寄稿できる。芦屋に住むという夢も今はない。混沌とした町で生まれ育ったからこそ、遠回りして人生を歩む人の気持ちを少しは理解できる。本当に少しだけだが…。いろんな人にやさしい尼崎をこれからも大切にしていきたい。

コラボ企画セミナー「リカバリーとスピリチュアリティ」のお知らせです!

「3月に宝塚にある女性専用の依存症回復施設リカバリーライフさんとコラボ企画セミナーを行います!ハイブリッド開催です。申し込み不要、参加費無料です。詳細は下記にて⇓」

タイトル:リカバリーワークショップ 第七弾

副題:リカバリーとスピリチュアリティ

日時: 2025年3月28日(金)

     午後1時半より

場所:ゴスペルプラザ

「(一社)リカバリーライフ」

https://rec-life.jp

〒665-0822

兵庫県宝塚市安倉中

5-10-12 KIMIOビル   

主催:阪神ダルク

ZOOM

ID : 294 726 6393

PASS : 1Nakdf

リカバリーの話の中に出て来る

スピリチュアリティとかハイヤーパワーのことが

よく分からないと言う人は少なくありません。

事実、12ステッププログラムが1935年に

発足した当時、メンバーの過半数が

「不可知論者」「無神論者」だった

ということが文献にも記されています。

今回のワークショップでは12ステップが

スピリチュアルなプログラムと呼ばれる所以、

特にニュカマーにとってチャレンジとなる

ハイヤーパワーとアディクトとの関係、

三次元とは違うスピリチャルな次元の

価値観、そしてなぜスピリチュアリティが

リカバリーに欠かせない要素なのかなどに

フォーカスを置き、後半はQ&Aの

セクションで質問にお答えします。

ではまたの再会を楽しみに!

Jay I.

2025年1月31日

ファシリテーター紹介: ジェイ・イナエ

1983年6月以来、いくつかの12ステッププログラム

(AA、NA、MA、Primetime AAほか)をアメリカで

体験・実践し、2004年以来NAワールドサービスの

日本語主任通訳として活躍。2012年以来全国で

リカバリーワークショップを開催。クリーン23年。

ロス在住。

「ダルクメッセージミーティング&家族相談室 in 姫路」のお知らせです!

薬物、アルコール、ギャンブル等の依存症でお困りの当事者様対象の出張ダルクメッセージミーティングです。ご家族様は個別相談で対応いたします。どちらも秘密厳守いたします。解決の糸口を見つけるためにほんの少しの勇気を出して参加してみませんか?

ご予約は不要ですが先ずはお気軽にご連絡ください。直接会場にお越しいただいてもかまいません。

日時 毎月 第1土曜日 13:00~14:30

会場 姫路市総合福祉会館

〒670-0955

姫路市安田3丁目1番地

<交通機関>

・JR山陽新幹線・山陽本線「姫路駅」下車、南出口から南へ徒歩で約20分

・路線バスをご利用の場合は、姫路駅(南口)「南21のりば」より約5分「姫路市役所前バス停」下

車。市役所前信号を西側へ横断後、南へ約1分。

・山陽電鉄「手柄駅」下車、東南の方向へ徒歩で約8分

<お車でお越しの方>

・会館南側の駐車場をご利用ください。駐車台数に限りがありますので、可能な限り公共交通機

関のご利用、または乗り合わせでのご来場にご協力ください。

ダルクメッセージミーティング&家族相談室in姫路ダウンロード

尼崎依存症家族相談室のお知らせです!

今年度も昨年に引き続き、兵庫県尼崎市で依存症家族相談室を開催することといたしました。阪神地域の依存症問題でお困りのご家族の方対象です。先ずは抱えられている問題の話せる範囲の近況報告からご家族向け依存症回復支援テキストなどを使いながら安心安全な雰囲気で連続的に行っていく予定です。個別面談も可能な限りご対応させていただきいます。予約不要ですが参加予定の方はご連絡いただけると助かります。直接会場へお越しいただいてもかまいません。秘密厳守いたします。

日時 毎月第3土曜日(先ずは令和7年3月までの予定です)

時間 13時30分より2時間程度 

場所 サンシビック尼崎 各回の部屋は当日1Fの掲示板でご確認ください。        住所 尼崎市西御園町93-2

参加費 無料

令和6年度尼崎家族相室チラシダウンロード

「阪神ダルクとの出逢い」尼崎在住 某経営コンサルタントの秘書業務  神山 ヒデ子

まずはじめに、各依存症を通じて自分自身と向き合い、回復に勤しむ皆様及び、理解を示されている周りの皆様に心からの敬意を表します。私の体験を通じて、未来に希望を持って頂きたい思いでシェアさせて頂きます。

父が病気で入院したのは私が7歳の時。退院後も働けなくなり、その憂さ晴らしの為か趣味の競艇にのめり込む様に。稼ぎ頭を無くし家計は火の車。母は昼夜問わず働きに出る。 軍資金が底を尽きた父は母へ無心。一気に負のスパイラルに陥る。この時点で外部のサポートが必要だったが当時は情報が無く、依存症の認識が無い私は「家庭内の事とはいえ父の行為は犯罪。私は被害者である一方加害者の娘という立場。友達に知られたら嫌われる。ともすると両親と一緒に暮らせなくなるかも知れない。そんな思いをする位なら話さない方がまし。」悪い事態を想定し、【現状維持バイアス】が掛かった状態に。その後、同級生のいじめに遭い家にも学校にも居場所を無くした時でさえ「私さえ黙っていれば、私さえ我慢すれば全てはうまくいく」そう自分に言い聞かせ現状維持。当然の事ながら状況は更に悪化。私に冷たくなった(と思った)両親の事をだんだん受け入れられなくなる。「親の事が嫌い、そんな自分はもっと嫌い」と自己否定。ある日「親に消えて欲しい!」そう思った瞬間我に返り 「こんなこと考える私の方こそ消えたほうがいいんだ。」と希死念慮が。当時10歳。

「私の人生、なんでこんなに悲しいんだろう?辛いんだろう?苦しいんだろう?なんで?なんで?なんで???」と自問。すると天からの啓示の如くひとつの答えが「私は不幸になる為に生まれてきた。」眉をしかめる様な内容に感じるかも知れないが私にとっては逆だった。内容よりも長年抱いていた疑問が解けた喜びの方が大きかったのだ。妙に腹落ちしスッキリした私は「了解!じゃぁ私はこれから強くなろう!不幸を乗り越える為に。」そしてこれは今後大いに役立った。不幸に対する心積りが出来たのだ。もちろんフォーカスが不幸にあたってしまった為、ありとあらゆる事象が不幸に感じるという副作用はあったが、いまだにこの答えを出した事を後悔したことは一度もない。あの環境下では免罪符。お守りになったのだ。高校生になった時、父のお金の無心は遂に私にまで及んだ。普段なら「今日はお金を盗られなかった。私の勝ち!」とゲーム感覚でやり過ごしていたが、そこはまだ未成年。ある日「父にとって私の存在意義はそんな程度なのか。」と思い悩み母に打ち明けた。しかし返ってきた言葉は「盗られる所に置いておくお前が悪い!」見事に返り討ちを喰らってしまう。そう我が家のルールは自分の身は自分で守る。とはいえいよいよ精神的に耐えられなくなり、外部に助けを求める事に。先生、バイト先社員、最後は行政に。しかし結果はどれも玉砕。現状は何も変わる事はなかった。

「もう他人に頼るのはやめよう。この問題は墓場まで持っていく!」                  

社会人になった後、数人に過去の話としてこれまでの事を話した。返ってきた言葉は

「今までよく死ななかったね。私なら自殺しちゃう・・・。」

当然の反応だろう。なんせ当の本人でさえもそう思っているのだから。

「あの時も死にたいと思った。この時も死にたいと思った。ある時なんて本気で死のうと思った。」そんな過去が思い出される。だが改めて他人の口から言われるとより一層気落ちする。自分の身の上がそんなに不幸なのかと。

時は流れ31歳になった私に運命の出逢いが。経営コンサルタントを生業にしている男性。時々個人の相談にも応じている。ひょんなことから私のバックグラウンドを知った彼が言ったひとこと。これが私の人生を変えた。その言葉は「今まで良く生きてたね。」

次の瞬間私の脳裏に【生きること】を選択してきた自分の姿が思い出された。

辛いながらも今まで毎晩「今日一日、なんとか乗り越えられた。よし。今日1日頑張れたんだから、明日もう1日頑張ってみよう。」と自分に言い聞かせながら眠りにつく日々。

そんな自分を誉めてもらえたような気がした。「あぁ、私の選択は間違ってなかった。私は生きてて良かったんだ。」ようやく自分を許せた瞬間だった。

その後不思議な事が起きる。私がつい「死にたい」と口走ると、突然背後から「今まで良く生きてたね。」と聞こえてくるようになったのだ。えっ!と振り返るも誰もいない。「何だったんだろう今のは?確かに聞こえた。」そんなことが繰り返される事3回。

そしてまたもや「今まで良く生きてたね」と聞こえてきたある日。遂に私はこう答えた。「はい、はい。分かりました。生きればいいんでしょ、生きれば!」開き直りだった。

宣言したからには実行に移さないといけない。しかし何から始めよう?そうだ。まずは「死にたい」と言うのを止めよう。思ったとしても言わない。行動を変えたのだ。

あれから早22年。今の私は昔では到底考えられない位、恵まれた生活をしている。改めて振り返ると、強くなりたいと思っていたが、強さははじめから私の中にあった。更には「生きる」ことを強く望んでいた。そう、答えは自分の中にある。

詩人、相田みつを氏の作品にこのような言葉がある。「その時の出逢いが人生を根底から変える事がある。良き出逢いを。」残りの人生、今日が一番若い日。未来は過去の延長線にある必要はない。人生はいつでも変えられる。人生は望んだ通りになる!

「私とダルク」尼崎市保護司会 会長 正岡 康子

私とダルクの出会い

初めて「ダルク」を知ったのは、30年程前同期で保護司の委嘱を受けた神戸市東灘区の知人から誘われ参加した講演会でした。講師は、お名前を忘れてしまいましたが、当時開設間もない「大阪ダルク」でスタッフとして働いていた人でした。その人は七色に染めた髪の毛や奇抜なファッションで、今で言う「グリ下」の女子高校生たちに人気があるという方でした。自身も薬物依存に長く苦しんだ経験があり、依存が進むとどのような経過をたどるのか、どのような身体の変化が起こるのか等々、生々しく詳細な話をされました。話を聞きながら壮絶な情景が目に浮かびました。今でもはっきり思い出すことができます。当時は「覚せい剤やめますか?それとも人間やめますか?」の覚せい剤追放キャンペーン全盛の時代でしたので、その方がどん底の状態からどうやって回復できたのか、仲間の大切さ、回復に向けた集まりの場の必要性、ダルクがどのように生まれてきた場所でどのようなことが日々行われているのか、初めて耳にする話が私の心に大きな衝撃を与えました。

ダルクとのつながり

その後、大阪ダルクの支部のような場を設けようと、尼崎市法務局の南隣にあった労働福祉会館に関係者や賛同者が集まり、何度か会合を持ちました。そこに賛同者の一員として私も参加しました。その会合には大阪ダルクの倉田めばさんや、当時の大阪や尼崎の保護観察官の方も何人か参加しておられたように思います。しかしながら、結局その取り組みは実を結びませんでした。 

そして今、尼崎城の東に位置する尼崎市保護司会サポートセンターの近くに、阪神ダルクが開設され、さまざまな依存症で苦しんでいる方々がありのままの自分で過ごせる居場所ができたと知り、私は嬉しく思っています。  

保護司としての活動

保護司としての活動の中で、薬物依存との関係で最近心配していることは、10代の若者、特に社会的に孤立している女子高校生の間でオーバードーズ(市販薬の用法・用量を守らず、大量、頻回服用すること)が増えているということです。尼崎市保護司会では毎年、市内17の全中学校を各地区の保護司が訪問し、薬物乱用防止だけでなく、不登校生徒への対応、生徒達の校内での日常の様子から卒業生の動向にいたるまで、各校の管理職や生徒指導担当の先生方と緊密に情報交換を行っています。不運にも一線を越え道を外れてしまった場合でも、信頼できるだれか大人に打ち明けて相談し、やり直しが出来るんだよということを子どもたちに伝え、理解してもらいたい、と願いつつ活動を続けています。

結びに代えて~重層的支援制度の発足

令和6年1月に尼崎市と尼崎市保護司会、神戸保護観察所の三者は、再犯防止の推進を目指し三者で協定を結びました。複雑に絡み合った事情を抱え困っている人を重層的に支援しようと、すでに多数の機関が協力し、連携が始まっています。

ダルクと出会ってからずっと私の記憶に残っているフレーズとして「今日一日クリーンでいよう!」があります。このクリーンな今日を、仲間と共に一日一日積み重ねていく、そのためにダルクという場所は欠くことのできない大切な場所だと思います。倉田さんの話の中に、次のような表現がありました。「こうすれば薬をやめられる」という革命的な方法はない。やめたばかりの人、やめてから数ヶ月たった人、薬物をやめて不安になり、状態が悪くなり再使用してしまった人、ダルクのミーティングでさまざまな人を見て、話を聞く中で回復につながっていくことがある。「薬物を使わない」という新しい生き方をする自分がいて、日々現れる症状を自分でチェックして、それを正直に話したら「うんうん」と聞いて認めてくれる仲間やスタッフがいる。そんな一日一日を続けていく。

「今日一日クリーンでいよう!」この言葉を忘れずに、出会いに感謝し、さまざまな局面に向き合っていこうと思っています。

「ごあいさつ」神戸保護観察所 統括保護観察官 左近司 彩子

神戸保護観察所で統括保護観察官をしております、左近司と申します。

阪神ダルクの濱津代表及びスタッフの皆様が、薬物依存をはじめとするアディクションを抱えた人たちの支援のため、日夜御苦労されていることにつき、深い感銘を受けております。

保護観察所は、犯罪をした人や非行をした人の再犯・再非行を防ぎ、社会の中でその立ち直りを支え、地域の犯罪を防止することを目標とした、法務省の機関です。

保護観察所でも、アディクションの問題を抱えた人たちは多く目にします。覚醒剤や大麻などで逮捕された人だけではなく、飲酒運転をする人やアルコールや処方薬の影響下で問題行動を繰り返す人、市販薬を手に入れたくて窃盗をする人、ギャンブルで生活困窮し犯罪に至る人、自分でも理由が分からずに万引きを反復する人など、背後にはアディクションの問題があると考えられる人たちが増えています。御存知のとおり、アディクションの治療には長い時間がかかりますが、残念なことに保護観察の期間は法律で定められており、我々が指導として関われる期間はごく限られています。私は、保護観察所で薬物再乱用防止プログラムを担当してきましたが、保護観察が終わる直前の最後のプログラムに参加していた人が、「ここに来ている間は欲求の話もできていたけれど、これが終わったらどこで話をしたらいいんだろう」と寂しそうに話す姿を見ると、心苦しく思います。

少し話は変わりますが、平成28年12月に施行した「再犯等の防止に関する法律」を踏まえ、平成29年12月に「再犯防止推進計画」が策定されました。この「再犯防止推進計画」では、犯罪をした人を「生きづらさを抱えた人」「支援が必要な人」と捉え、国や地方公共団体・民間が力を合わせて再犯防止に取り組むことが提唱されています。令和5年度から開始した第二次計画では、7つの重点課題の1つとして、「保健医療・福祉サービスの利用の促進」が掲げられていますが、そこには「薬物依存の問題を抱える者への支援」が含まれており、具体的な施策として、「自助グループ等の民間団体との連携を強化し、刑事司法手続が終了した後も継続的な支援ができる体制を整備」することが明記されています。

また、昨年12月には、更生保護法の一部が改正されましたが、そこでは、保護観察が終了した者等への地域での援助が保護観察所の業務として規定されることになりました。依存症の問題を抱えた人たちを地域で支えるダルクとの関係が、これまで以上に重要なものとなってくると考えられますので、今後ともよろしくお願いいたします。

更に、阪神ダルクが位置する兵庫県尼崎市においては、重層的支援推進事業の枠組みの中で、罪を犯した人を含む、複合的な問題を抱える人を多機関ネットワークの中で支えていく取り組みが進められています。そして、神戸保護観察所も、尼崎市・尼崎市保護司会と「再犯防止の推進に関する連携協定」を結び、ネットワークの一員として、彼らの生き直しを支えていきたいと考えています。

なお、私事ではございますが、令和6年4月以降は神戸保護観察所尼崎駐在官事務所の統括保護観察官として、尼崎市に住む保護観察対象者の処遇、及び市内の関係機関との連携を担当することになりました。阪神ダルクの皆様とは、顔を合わせる機会も増えるかと思います。これまで以上に協力関係を深めていきたいと思いますので、重ねてよろしくお願い申し上げます。

【自分が変われるきっかけをくれたダルク】 ユジン

 僕が薬物に手を出したのは25歳の頃です。大学を卒業し、国家資格を取得し、思い描いていた社会人生活を送り始めた頃でした。実家から大阪まで通い、頑張って貯金をし、一人暮らしも始めました。しかし、社会人生活というものは、そう楽なものではありませんでした。それでも頑張って働くことを続けていました。そんな生活を送る中で、覚醒剤に出会いました。僕はセクシャリティがゲイで、きっかけはネットで知り合った男性に誘われたことでした。誘われたときは、相手の男性がタイプではありませんでしたが、薬物を使用するという興味の方が強かったため、迷うことなく相手の家に行ったことを覚えています。相手の男性が準備しているものが、覚醒剤だという認識はありませんでした。覚醒剤というものを実際に見たことがなかったからです。でも、何かしら危ないことを今からしようとしているんだなという認識は少なからずありました。それでも興味の方が強かったため、その場でも断ることなく、覚醒剤を使うことになりました。僕はそのたった1回の使用ではまってしまい、何度も相手の男性の家に通うこととなりました。さらに使用頻度はエスカレートし、自ら売人を探し、覚醒剤を買うようになり、依存の道へと走り出しました。使用し始めてから、約1年後の26歳。初めての逮捕となりました。大阪の家から手錠をかけ、新幹線に乗り、東京まで行きました。窓から見える富士山に感動することなく、ただ悲しさだけが僕の中にありました。懲役1年6か月、執行猶予3年の判決で刑務所に行くことなく。娑婆に戻ることができましたが、僕の頭の中からは悲しみは薄れ、どうやったらまた覚醒剤を使うことができるのか、そんな思考が渦巻いていました。すぐに使うことはできませんでしたが、執行猶予を過ぎたあたりから、再使用が始まりました。就職して、仕事はできるものの、薬物を使用してしまうと、幻覚や幻聴、勘ぐりがひどいため無断欠勤をし、仕事を退職するというサイクルを何度も経験しました。そんな人生に嫌気がさし、薬物をやめたいという気持ちが芽生えるも、それでも薬物から離れることはできませんでした。幻聴の影響で死んでしまおうと自殺を試みたこともありました。でも死ぬ勇気はありませんでした。頭の中で死にたいと思っていても、体は生きたいと感じていたようです。そして2022年7月の33歳の時に親に通報され、2度目の逮捕となりました。覚醒剤を大量に使い、自分ではどうすることもできなかったため、親に助けを求めたのですが、親もどうすることもできなくなり、警察に通報したそうです。最初は悲しかったです。でも、警察が来たときは、心のどこかに少し安心した気持ちもありました。これで薬物から解放されると思ったからです。裁判も終わり、1年6か月の実刑判決で刑務所に行くことが確定しました。拘置所で過ごしている間、僕を担当してくださった弁護士の先生がとても良い方で、今の阪神ダルクの施設長と出会うこととなりました。アクリル板越しに施設長と会ったときはとても緊張しましたが、この出会いが僕の人生を大きく変えるきっかけとなりました。「君は一人じゃないんだよ。」たったその一言が僕の心を動かしてくれました。それと同時に、僕は薬物の問題を一人で抱え込もうとしていたことに気づかされ、自然と涙が溢れました。その瞬間から僕は「この人に付いて行こう」と覚悟を決めることができました。ダルクに行くという覚悟を決めてから、僕の中で少しずつ変化が起き始めました。刑務所の生活は辛いこともたくさんありましたが、自分自身と向き合うことも行なっていました。そして、2023年10月、仮釈放をもらい、阪神ダルクにつながりました。最初は訳も分からず、施設内のプログラムをしたり、NAのミーティングに参加していました。最初のころは自分のことを話すに躊躇したり、話せても上っ面なことだけ話していました。でも、そんな状態でもミーティングに参加し続けていると、先行く仲間の話が段々と分かってくるようにもなり、自分の本音も少しずつ言えるようになりだしました。大きく変化が出だしたのは、入寮してから1か月ぐらいの頃でした。仲間のことで思い悩み、つらい時期がありました。そのことを泣きながら話せたことでした。自分の本音を話すことができたときは心のもやもやが少し晴れたような気分になりました。その時ぐらいから、本音を話すためらいも減り、素の自分を出せるようになったと思います。もちろん本音を話すことが簡単なことではありません。勇気がいることです。でもその大きな一歩を踏み出すことで、成長できることも知ることができました。健常者にとっては、それぐらいのことかと思われるかもしれませんが、僕ら依存症者にとってはそれが容易ではなく、薬物に手を出すきっかっけとなるみたいです。

 阪神ダルクに入寮して、自分と向き合うことだけではなく、素面で楽しむことも行なっています。USJや有馬温泉、白浜旅行にも行きました。また、この年末年始は西宮の神呪寺で御来光を見たり、銭湯に入ったりと満喫することができました。薬物を使っていたころはも同じような過ごし方をしていましたが、どこか寂しさもありました。でも、今はこうして仲間と過ごせていることが何よりの幸せです。この思いを忘れず、これからの回復に力を注いでいきたいと思います。回復がうまく軌道に乗れば、ダルクのスタッフをしたり、まだ苦しんでいる仲間にメッセージを運べるような人になりたいと強く願っています。

「ダルクと関わり見えてきたこと」阪神ダルク支援者 川西 悦子

 20年ほど前、友人の息子さんが深夜に徘徊をしているのを捜索したことがきっかけで、私のボランティアの夜回りが始まりました。

 子ども達は様々な理由や事情から深夜徘徊をしていました。子ども達によっては暴力、貧困、女の子に関しては性暴力等、複雑な家庭環境がありました。その子ども達の中で苦しさを紛らわすためシンナーや大麻といった薬物に手を染める子ども達とも出会ってきました。私はその子供たちをなんとか出来ないかと思うようになり、色々な薬物の本を読み勉強しました。そしてある本に「薬物は依存症という病気である」と書かれていました。「えっ病気、病気なら治る」と思いました。薬物に関する専門書等を色々読みました。その中に薬物依存症の人たちが回復できる施設「ダルク」という場所があると知りました。そして、探した施設が「京都ダルク」という施設でした。ここで薬物のことを勉強したいしようと決心しました。

 初めての訪問前日、私はとてもドキドキしていました。世間では「覚せい剤やめますかそれとも人間やめますか。」のCMが、テレビで流れていた時代でしたので、本当に大丈夫かな?薬物を打たれたりしないかな?と真剣にその当時の私は思いながら、ダルクへ行きました。

しかし、本当のダルクは全く想像とは違いました。

ダルクへ行き、京都ダルクの玄関を開けて入ると、スタッフの一人が出迎えてくれましたそして、私と握手をした後、ハグしながら、「川西さん、良く来てくれました」と挨拶をしてくれました。その後も次々とスタッフ、利用者が集まり、順番に握手、ハグをしてくれました。私は緊張がとれ、受け入れられたような気持ちになりました。

それと同時に人の温かさを感じました。私はすぐに溶け込み、一週間に一回、ボランティアとして通いながら薬物の勉強をしようと心に決め京都ダルクへ行くことにしました。

 ダルクの一日は、午前、午後にテーマを決め一時間の「言いっぱなし聞きっぱなし」というミーティングを中心に行われ、それ以外にも昼食の作り方や規則正しい生活の在り方をダルクで学んでいました。ダルクでは一日二回のミーティングに力を入れ「今日一日薬物を使わないでいよう」を合言葉のように真剣に取り組んでいました

ダルクの人たちはテーマに沿って、自分の思い、苦しかったこと、生きづらさ等の気持ちをありのまま語る。

私はよくそのミーティングに参加させてもらい、薬物の方が語る体験談を聞いていました私にとって、その体験ははじめての経験でした。薬物を使い逮捕、精神科病院の通院や入院。孤独、孤立し自信がなくなり自尊心が傷つき絶望、家族にも見放され、苦しくなり再度薬物に手を染めていく。このような話をよくしていました。

これからどう生きていくのか、一人で考え生きるのではなく、仲間と共に助け合いなから生きることが薬物の人には必要だと感じました。

「安心できる居場所、それがダルク」と思いました。

私はこの人たちに何ができるのだろうか?と自分自身に問いかけました。当事者でもない私ができることを考えた時、側に居続け、寄り添い続けることはできる。一支援者として支援し続けることはできると思いました。

その日から今年で18年目。

色々な薬物依存症者との出会いで、私自身の考え方が変わり生き方を変え、色々な意味で成長させてもらえた気がします。うらぎらない、ありのままを受入れる。私の生き方の軸がこの時、生まれました。

今後もずっと依存症の方たちと関わり、支援者の一人として寄り添い続けていきたいと思います。

タイ出張で感じた広い回復世界   BOND

前置きに自己紹介させてください。

阪神ダルク入寮中のボンドと申します。今回で3度目のダルクの入寮です。1度目の大阪ダルクには何もかも新鮮で新しい世界でNAも施設も、仲間も。ミーティングと料理プロクラムをこなして没頭してて気がついたら、一年が経ち、退寮しました。その約2年後にスリップ。2度目の入寮は懲役から出て来た時で薬を使う欲求がなかったものの、取り敢えず安全な場所だと思い、神戸ダルクに入寮しました。信じられないほど過酷な人間関係の環境でした。その中で自分の欠点や自己中心的な心が仲間の中にたくさん見せられたにも期間中に関わらず反省するだけで終わっていました。そこにも一度目ダルクと同じように、“仲間のサポート”という大義名分で施設の仕事をこなして、あっという間に2年4ヶ月過ぎ、またも自分のことを良く知らずに退寮しました。リラプス、そして、今回3度目として、今の阪神ダルクに入寮させた頂いています。

さて、本題ですが、今年の11月にタイ語の通訳仕事でタイ王国に二週間ほど、行ってきました。主に薬物依存症専門の病院の中でヨガ療法師の研修プロクラムに参加させて頂きました。ダルクに入寮しながらも、海外出張ができ、タイの家族と有意義な時間を過ごせたことが施設に感謝しかありません。

そのタイの病院で自分と同じように薬物依存症の仲間だけではなく、その人たちに携わる医者、看護師、ソーシャルワーカー、心理士、薬物療法士、大学の研究家などの国レベルの問題まで幅広く話しを聞くことができました。僕の仕事は通訳なので、より鮮明に話しを深く理解することが出来、当事者の自分は誰よりも薬物依存のことが分かると感じて光栄でした。人はなぜ薬を使うかは僕が一番良く知っているからです。そのおかげで、プログラムの中でたくさんの「ありがとう!」を頂きました。嬉しかったのです。

ある日、タイの軍の薬物依存専門病院にチームが講習行きました。タイでは2回目以上、逮捕されると除隊されるので、真剣に軍人が治療に行く秘密の場所があります。彼らの家族も彼らの居場所が知らないそうです。そこでヨガプログラムの一環として、自分に意識を向けさせるために自分のことを話すプログラムがありました。タイの人はあまり自分のことを話すのは経験が少ないので僕がサポートに入りました。二人ペアで交代で「なぜ自分が薬を使ったか」というお題でした。そこに皆が話ししていたことがまるで、日本で僕が日常に聞いているNA仲間のミーティングのようで、それがタイ語で聞けたことに僕はNAミーティング参加しているような感覚になって感動しました。そこに話されたことが出会い、苦しみ、悲しみ、後悔、そして回復についてでした。「友達に勧められて薬を初めた」とか「辞めたいけど、使いたい」とか「切望の毎日」「希望」などについて… 自分の国で仲間の分かち合いができたような感覚で凄く嬉しくなりました。僕が当事者であることを明らかにできない立場だったので残念でしたが本当は僕も自分の経験を彼らにも分かち合いしたかったのです。いつも、小さな世界の中に肩身狭く生活している僕にとって一気に回復の世界が広がりました。回復の中で自分が一人ではないと思っていましたが、一層強く一人ではないだなと、今回のタイの出張に通してより確信することがきました。

今のタイはまだ日本のように社会保障が確立せず、自助グループはもまだ「ヤクチュウの溜まり場」だと認識されいる時代で普及していない現状です。僕はいつか日本で学んでいることをタイの仲間にも手渡しできるように成長し続けていきたいとも思います。ハイヤパワーが相応しくない僕の人生に広い世界を見せてくれたなと大変感謝です。

最後になりますが、

昨年、僕はあるスピリチュアルな経験(心が変わる経験)をしました。ある方に“自分が今、歩んでいる道に回復があるかどうか”と質問しました。そして「今の唯一のあなたの仕事は自分のことを知ることです」と言われました。自分にとって、その瞬間がその言葉が今までの約10年間の今まで入寮と退寮の繰り返し経験の全ての説明となったような気がしてて今の僕のダルクの居る目的にするべきだ僕が感じていました。お節介し人の問題を解決することやあれこれを疑うことをやめることにしました。

今の入寮中は「何をする」「何を学べるか」ではなく、正しい目標は「自分を知る」だと設定し直しました…自分が何者で、世の中に何を…誰を…大切にしていきたいのかという答えを与えられた経験の中に見つけていきたいと思っています。ありがとうございます。以上

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