江田政亮(えだ まさすけ)貴布禰神社第17代宮司/保護司

江田政亮(えだ・まさすけ)

昭和44年3月22日生まれ、関西学院中学部、高等部、関西学院大学社会学部で学ぶ。高校・大学時代はアメリカンフットボール部に所属。卒業後は産経新聞社に入社し、サンケイスポーツに配属され2年間、整理部・運動部・大阪国際女子マラソン事務局に勤務する。父の死去後、平成5年11月から貴布禰神社第17代宮司として奉職する。産経新聞社退社後も、大阪新聞・夕刊フジなどの記事を執筆。現在は社会人アメリカンフットボール「Xリーグ」のオフィシャルホームページ記者。地域誌『南部再生』のコラム執筆。FMあまがさきにて「8時だヨ!神さま仏さま」(毎週水曜日20、FM82.0)のDJとしても活動した。

今から30年ほど前、ある地域誌に「尼崎は住みにくい町だ」というニュアンスの話を寄稿した。その根拠としたのは、①犯罪が多い ②公立小学校・中学校の学力レベルが低い ③パチンコ店など娯楽施設が多い これらの理由で、当時の私の年齢であった30歳前後のファミリー層が、尼崎市内に住むことを敬遠していることだった。私自身も半分冗談だったが、「夢は芦屋に住むことです」と話すほど、子育て世代から尼崎は敬遠されていた。

 地域誌が発行された直後に、お知り合いの方から「宮司さんが、尼崎は住みにくい町だと言ってはいけません」とお叱りを受けた。そして「これほど住みやすい町は他にありませんよ」と続けられた。

 尼崎という町は、昔々から発展した町だった。市内には、64の神社があるが、現在同じくらいの規模の市である西宮市内の神社は、40社に満たない。人が集まって村が作られ、その村人の集う場として神社という空間が生まれるだけに、両市の神社数を比べれば、西宮市より尼崎市の方が、多くの人が住む発展した町だったことが分かる。

 また、戦前から戦後、尼崎市は多くの工場が進出し、高度経済成長時代には、人手を確保するため九州・四国などから多くの働き手が移り住んできた。大阪と神戸の間の小さなエリアが、50万人都市になりかけるほどの賑わいを見せた。多くの人が営みを始めると、当然いろんなことが起こる。

 私が幼かったころ、近くの銭湯に連れていかれると、立派な刺青を体中に彫ったおじさんが数人浴槽に入っているのはごく普通の光景だった。神社の隣の公園には今でいうホームレス(当時は浮浪者・ルンペンと言った)が何人もいて、「お宮さんのボン!」と声を掛けられ、怖くて家に駆けこむことが何度もあった。境内で若者がたむろしていると、その傍らにはシンナーの入ったビニール袋が落ちていた。

 神社の最寄り駅である阪神出屋敷駅は、日雇いの労働者が仕事を求めて朝に集まってくる町だった。尼崎センタープールの客も駅前の立ち飲み屋で昼間から酒を飲んでいた。ある時、ズボンのポケットに入れていた五千円札を不覚にも落としてしまい、気づいて振り向いたら、すでに知らないおじさんのズボンのポケットにしまわれていた。「それ僕のです」とは、よう言えなかった。

 でも、地域力は半端なかった。

 そこら中の長屋の前には、おばちゃんたちが集い井戸端会議。その前を通ると、「ぼん、お帰り。今日は早かったな」。近くの市場や商店街も活気があり、店頭に立つおっちゃんが、しっかりと見守ってくれていた。

神社の祭りも町を挙げての全面協力。近所のおばあちゃんは「盆も正月も帰ってこうへんけど、貴布禰さんの祭りだけは子どもや孫が来てくれるから、少々のことは任せとき」と道路のゴミ掃除などを手伝ってくださっていた。

現在の組織化された地域力ではなく、自然発生的に生まれる地域力がそこにあったと思う。

 まだまだ、尼崎は捨てたもんじゃない、と言われる。あの混沌とした町の時代から40年以上が経過し、刺青を入れた人を公衆浴場で見かけることもほぼなくなり、ホームレスもいなくなり、落とした金品も手元に戻ってくる住みよい町にはなった。と同時にあの頃の魅力、人情もまだ少しは残っている。

 今なら、尼崎は住みよい町だ、と寄稿できる。芦屋に住むという夢も今はない。混沌とした町で生まれ育ったからこそ、遠回りして人生を歩む人の気持ちを少しは理解できる。本当に少しだけだが…。いろんな人にやさしい尼崎をこれからも大切にしていきたい。

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